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私が入学した当時、大学には弓道部がありませんでした。(昭和36年)

たまたま私は高校時代に本田琉の弓を学んだ経験があったので、もう少し弓をやってみたいという願いがありました。そこで当時学生寮に住んでいた私は庭に巻き藁を作り一人で練習していました。しかし物足りなくて、だれか教えてくださるところがないか探したところ、ちょうど近くに浦上道場があることを知り、その門を叩きました。そこで始めて自分が学んできた弓とは全く違う引き方を見て、びっくりしたものです。しかし、しばらくの間は勇気がなくて自分の引き方を変えませんでした。押し手カケをして、四つカケで、取り矢をしないで引いていましたが、それを先生方は暖かく見守ってくださいました。それからしばらくの後、浦上栄先生の日置流印西派の勉強を始めました。ちょうどそのころ東工大の弓道部の再編を手掛けておられた西田さん等と同じ時期でした。

当時を思い起こしてみると学校は鉄筋コンクリート造りの校舎が一つだけで、あとは木造の古びた校舎がいくつかありました。学生寮は二つあり一つは自由が丘にあり綺麗な洒落た寮でした。地方から上京した者は、木造の古びた廃校になったような建物を改造した寮(清和寮)でした。押し入れが二か所あり、その上下に布団を敷いてベットにして一部屋4人で住んでいました。地方から出てきたいろいろな先輩たちと一緒でそれは楽しいものでした。年に一度「寮祭」と称して広場でキャンプファイアーを楽しんだり、神輿をかついで裸で自由が丘の駅前広場まで行ったりして馬鹿なことをしていました。その頃、高校時代引いていた弓が懐かしくなり巻き藁を作り寮の広場の片隅で引いていました。学校に行くと他の部活の勧誘(自動車部と応援団だけしかなかった)が激しく、それならいっそ自分で同好会を作ろうと思い立ち、寮の仲間を誘い、クラスの仲間にも声をかけ立ち上げました。しかし、練習する場も教え手もいなかったので電車の窓から見えた弓具屋さんに行って相談したところ近いところに浦上道場があることを知りその門を叩きました。

当時、栄先生はご健在でしたが、かなりのお歳でした。
しかし博子先生は 弓の指導に関しては、まったく口を出されませんでした。次ぎの詠が示す通りです。【人の弟子 構えて弓をそしるなよ、人それぞれに思いありなば…】    

しかし愽子先生には先を見据えたご援助をいただきました。当時、浦上道場で三羽鴉と言われていた、福留先生、小野先生、米山先生をお年の順に学校のコーチに割り振っていただきました。 それを諸先生方は快く受け入れてくださいました。(今、思い起こすと浦上道場、諸先生方々には多大なご心痛と経済的なご迷惑をかけていたことと、深く反省しております。)

学校の授業が終わると、一目散に皆で道場にお邪魔すると、ちょうど下の写真のような状態でした。そうです栄先生はいつも暇があると道場に弓の張り台を出されて弓の村取り(弓を削る)をされていました。

私たちを見るとニコニコされて「あ~いらっしゃい」と温かく迎えてくださり、すぐに張り台などの道具をかたずけられてご自分も練習用の弓を持たれました。まずご自分が巻藁を引かれ、そのあと皆が続きました。ふた回りほどする間に一人、一人を しっかりと指導されました。その光景は今でも目に浮かびます。 本当に私は恵まれた環境で素晴らしい先生から弓を学べていたのです。しかし当時は、今ほどの認識がなく、ただただ一生懸命弓を引いていましたが、今になって、はっきりと偉大な素晴らしい先生から、伝統ある日置流印西派をご指導いただいたのだ ということを認識し深く深く感謝している次第です。

その後、丁度 1964年の東京オリンピックのころ持病がぶり返し人生2度目の長期入院せざるを得ない状況になりました。当時の学生寮生の多くの方からの輸血で救われました。その後社会人になり、ぼちぼち弓を引いていましたが、3度目の長期入院の後、家族で田舎に移動しました。そこでの肉体労働が功を奏したのか、体力がつき元気になりました。その後東京に戻り弓を本格的に始めました。

ある時、学校の弓道部が懐かしく思い、学校の道場を同志と共に訪問しました。その頃 故米山先生(3人目の監督はご健在で快く迎えてくださいました。当時の弓道部はそのおかげでキビキビとした雰囲気と、真剣に弓を学ぶ良い雰囲気が満ち溢れていました。ただ当たれば良しというものではなく、礼儀正しく愛情のある人間的なものを感じました。練習中、上級生が下級生を励ますあまり口汚くなじったのを見て、米山先生はその後その生徒を読んでー「そのような表現は良くない、人のことを馬鹿だチョンだというものでない」と厳しく師かっておられたのを思い出します。ですから当然、的を外したからといって厳しく叱ったり体罰を与えるようなことは決してありませんでした。

 平成20年8月に久しぶりに道場をお尋ねしました。愽子先生もご健在で私のことも良く覚えていてくださいました。皆さんにご紹介をしていただきこの人は「○○学校の弓道部を作った人ですよ!」 とも言ってくださり快く迎えてくださいました。そして撮影にも快く応じてくださいました。大変お優しい方でした。    
 故 愽子先生には大変お世話になり深く深く感謝しております。2019/10日 追悼射会に明治神宮まで行ってきました。

(最上部の写真は2代目の監督故小野先生(北信電機の指導の下に千葉の館山まで合宿に行った時の写真です。現在生き残っている当時の仲間はごくわずかですが、この写真のカメラマンはまだ健在で故郷広島で孤軍奮闘、元気に弓を引いています。)

そのようなおかげで、つい最近まで学校の弓道部は純粋な日置流印西派を直弟子故 米山先生)を通して学ぶことができていました。これ等の事は本当に感謝すべきことと心から思っています。この感謝を形に表す方法の一つは、学校の弓道部が勝ち負け、中りだけにとらわれず、少しでも純粋な浦上栄先生の日置流印西派の引き方を受け継ぐようになるようにと心から願っています。そうした点でも、指導者たる者正しい認識を持つべきであると考えています。現在では栄先生の貴重な資料が文章化されているので、直弟子が居なくなっても正しい指導が出来るはずです。

いや そうすべきです!また一人、貴重な栄先生の直弟子がお亡くなりました!

また、この稲城の地においても、純粋に栄先生の印西派を学ぶ人たちを本当に微力ですが心を込めて育てていきたいと思っています。弓連の段や称号を取ることに情熱を傾けるあまりに貴重な流派の教えが等閑(なおざり)になりつつあるこの時代に、「稲城紅葉会に来れば段取り競争に患わせられずに弓の練習が真剣にできる」また、「ここに来れば、同じ志を持つ人がたくさんいる」 という事を、多くの人に知られるようになってほしいと思い同志と共に魂を込めて頑張っています。(2020/8)

[私達の永遠の師 浦上栄先生のことば]

物には本末があり、事には終始がある。遠きに行くには近きからするように、射道においてもまた同じで、それぞれ順序がある。それ故、体育、修養のみに供してる今日でもなお、古来から伝わっている射法に従って、これを学ぶことが最も必要である。いやしくも、これに拠らなくては射の目的もまた、その効を失うに至るであろう 】   「 紅葉重ね」より


故 浦上直先生(栄先生の息子さん)は、あるとき私たちが浦上道場をお伺いした時快く歓迎してくださり、その後弓道談義に入られました

「00さん、私は斜面打ちおこしと言われるのが、きらいでね~、私は左前三角 片面打ちおこし‥…と言うようにしているんです。」と、言われました。直先生は、お父さんの引き方が単に打ちおこしの仕方が違うだけのように聞こえるのを嫌がられたのかもしれません。

「打ち起こし」は必要に応じて行われるのが自然で、騎射は的が前方約三十間くらいのところにあるので馬上で正面に打ち起こしをし、的前(現在の十五間の的前)では左に的があるから左斜めに打ち起こしをする。米国式、英国式、中国式、蒙古式、などおよそ弓矢のある民族は皆しかりである。「もみじの春秋」よりの引用文

現在の弓道界の中には、弓の引き方を「正面打ち起こし」「斜面打ち起こし」と言う表現で分けて、あたかも「打ち起こし」の仕方が違うだけで大差はないような考え方が一部にあります。確かに段や称号を追い求める人々にとっては、そう考えるほうが当たり障りがなくて良いかもしれません。

ある弓連の称号者はこう言いました「○○さん‥弓はどうやって引いてもいいんだよ!」‥こうした言葉は段取りを目的にする人たちには当てはまるかもしれません。

しかし、弓は本来その発展をたどれば、騎射(馬上の射を目的とする)小笠原流、 歩射(徒歩にて近き敵を射る、現在の十五間)ー日置流、吉田、印西、雪荷、大和、 堂射(三十三間堂の通し矢を目的とする)ー道雪、竹林(ここから本田流がでてきた)、大蔵の三射に分類でき、そのいずれもその目的に適するよう射法弓具が発展してきたものです。ですから、それらを無視して自分にとって都合のよいところだけを取り入れ、自分独自な射を作っていくと、どうなるでしょうか? そうした人たちが、また指導者として新しい人たちを教えていくと日本の長い伝統ある弓道の将来は一体どうなるのでしょう?

確かに弓道人口は増えても、次第に本来の素晴らしい流派の特徴が、影をひそめ、段取りのための独特な弓道が出来上がってくるのではないでしょうか? すでに、その兆候はいろいろな所にはっきりと見えています。

先ほどの「打ち起こし」の話に加え、直先生はご自分の書斎からたくさんの日置流に関する本を10冊以上持ってこられ、最近では○○さんがこんな本を出している、と言われご自分が付箋を付けられた部分をたくさん示されました。また、こんな丸いの(CD)を出しているとも言っておられ多くの人が自分流を宣伝していることを言っておられました。それらは浦上栄先生の教えから外れている箇所だったようです。直先生は本当によく印西派を研究され、またさらに「ご自分のお父さんを心から尊敬されているんだな~」と感じました。

また、栄先生直筆の写し日置流弓術射道大意」を稲城紅葉会の成員分いただきました。

私たちの宝ものです」(飾っておくのではなく、皆で読み込み暗記していつも復習しています)。

私たちはこれらのことをよく心に留め、自分個人の考えや、他の人からの受け売りを他の人に教えることなく、いつも浦上栄先生の教えを忠実に学んでゆきたいと思います。

人はやがて年を取り、朽ちてゆきます。しかしこうした貴重な文章や同門会が編算した数々の書物は、いつまでも残っていくはずです…。

また、私たち稲城紅葉会のホームページも、こうしたことの少しの手助けにでもなり、多くの誠実な方が栄先生の日置流印西派に関心を持っていただく、きっかけになればと思いこれからも記し続けてゆきます。

そして私の後に続く稲城紅葉会の方たちもきっと、その意志を引き継いでくださることと、確信しています。

[管理人の独り言]

そういえば、ある射会で何十年かぶりに会った友人のことですが、彼は私の顔をみるなりすぐ‥「~さん、私は○○称号と○○段を取りました。うまくなったでしょう‥」と言いました。彼は、よほど嬉しかったのでしょう。確かにその努力は認めますが彼の弓を学ぶ目標が、いつの間にか、そこに移っていったような気がしました。あとで、彼の射を久しぶりに見ました。しかし私には学生時代の射とあまり変わらないように見えました。(多分私の射もそのようなものかもしれません)確かに一旦、称号や何段かを取ると、何だか上手になったように感じるのかもしれません。しかし現実はさにあらずです。一旦段取り競争に巻き込まれると、もうそこから抜け出すことはプライドが許さなくなります。少しでも自信がない時には人前で引くのを避けるようになります。その気持ちはよくわかります。しかし、栄先生は私たちが練習に行くといつも先頭に立って巻き藁を引かれ手本を示されました。的前を引かれて矢が地を這って行っても決して言い訳されませんでした

私たちも最後まで弓を引くことを、やめたいとは思いません。

 一般の人たちとよく一緒に弓を引く機会がありますが、まず会話に出てくるのは次のような話が大半です。「あの人は何段で称号はOOだそうよ」「私はいつ、何段をいただいた…」「いつ、どこで審査がある」「だれがまた落ちた」「だれだれが、やっと受かった」 ‥‥「○段を取るには弓を回さないとダメだよ~」「○段に受かるには、こういう離れでなければ最近は受からない~」「最近は射よりも、体配をしっかりしないと~」 ‥‥

また、ある人はこう言われていました。「最近の弓は人に見せるための弓道になった‥…」

私たちは、そうした考え方に決して調和したいとは決して思いません。

私たちは浦上栄先生の射を研究し、見習い、少しでも近づきたいと心から願っています。  

 またつづきは、後ほど…。

 心の熱い人!来たれ!

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